
飛騨古川の町並みを深掘り!美しい景観を保つ秘訣とは?
素朴な暮らしが残り、穏やかな空気が流れる飛騨古川の古い町並み。この町並みはいつ誕生し、どんな風に移り変わってきたのでしょうか。
町を歩くと、美しい景観を守るために様々な工夫が施されていることに気付きます。これを知れば町歩きがもっと楽しくなる、そんなポイントをご紹介します。
飛騨古川の歴史
飛騨古川の町並みの起源は、戦国時代にまでさかのぼります。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将「金森長近(かなもりながちか)」が、飛騨高山に高山城、飛騨古川に増島城を築き、それぞれに城下町をつくりました。
古川の町は、開田のために引かれた「瀬戸川」を挟んで、北東は武家屋敷、南西は町人・商人町として発展。城下町特有の碁盤目状の区割りが、今でも残っているのが特徴です。
なお、現在は観光スポットとして知られる瀬戸川ですが、かつてはメイン通りである壱之町の裏手でしかありませんでした。「瀬戸川の“瀬”は“背”の意味でもある」という説があるように、町の裏側だったのです。
そして、町の大きな転機となったのは、1904年(明治37年)の古川大火。町の大部分が焼失した後に建てられた町家には、伝統的な木工技術が使われ続け、防火に強く調和のとれた町並みへと復興しました。
1934年には高山本線が開通し、駅周辺は賑わいを見せましたが、大規模な都市開発はされず、暮らしとともに息づく町の姿が残りました。
まちづくりの契機となった瀬戸川の鯉
町並みが復興した飛騨古川でしたが、1950年代半ばからの高度経済成長期に入ると、ゴミや生活用水により町全体に汚れが目立つようになりました。
頭を悩ませた人々が考えたアイディアは、瀬戸川に鯉を放流すること。鮮やかな鯉が泳ぐ川にゴミを捨てる人はいなくなり、町の環境を守る機運が高まりました。今では、瀬戸川と白壁土蔵街とのコントラストが、飛騨古川を代表する光景となっています。
また、川沿いには住民が掃除に使う用具が常備され、当番制で日々の清掃が行われています。瀬戸川の美しさは、こうした日々の積み重ねの賜物なのです。
景観に配慮したデザインのゴミ箱や灯篭、風に揺れる柳の木、そして地元中学生と企業が共同で制作したベンチ。どれもが風景の一部として調和し、観光地でありながら市民の憩いの場としても愛されています。
景観保全の意識啓発
美しい景観を保つには、町の人々が「町並みを守ろう」という気持ちを持ち続けることが不可欠です。
1985年に古川町観光協会は、伝統的な建築様式を取り入れた建築物を表彰する「古川町景観デザイン賞」を創設。翌年には、(財)日本ナショナルトラストによる町並み調査も行われ、外部からの評価が町の魅力を再認識させるきっかけとなりました。
1990年代に入ると、高層ホテルなどの町並みにそぐわない建築計画が浮上するように。これを機に、景観条例や建築デザインガイドラインが整備され、「飛騨古川らしい町並みを守る」という住民の意識が一層強まりました。
また、飛騨高山の古い町並が国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている一方で、飛騨古川は未選定です。使える補助金が少なく厳しい規制もない、だからこそ住民主体のまちづくりが進められてきました。
独自の町並み形成
古川の町をじっくり観察しながら歩くと、建てられた時代によって建物の趣が異なることに気付きます。
古川大火の直後に建築された「伝統町家」は2階が低い造りで、かつては養蚕を行っていました。大正から昭和初期にはモダンな洋風建築が取り入れられるようになり、戦後になると老朽化した伝統町家の建替えや改修が増加。飛騨の匠の木工技術を使いつつ、新しい性能やデザインを取り入れた「新町家」が普及したことにより、飛騨古川独自の町並みが形成されたのです。
そんな新旧の建築様式が違和感なく建ち並ぶ背景には、「相場くずし」を嫌う住民気質があります。相場くずしとは、周りとの調和を乱すこと。寺や屋台蔵より高い建物を建てない、地元の大工に依頼して古川らしい意匠を使用する、そんな人々の美意識が、古川らしい景観を作り上げてきました。
美しい景観を保つこまやかな工夫
新町家の軒下には、「雲」と呼ばれる装飾があるのも大きな特徴です。全国的には社寺によく見られる意匠ですが、飛騨古川では一般住宅や店舗にも施され、町の統一感を演出。雲は地元の大工が署名代わりに彫ったもので、1954年頃から普及したと言われています。
他にも、木製格子で覆われた室外機や電気メーター、玄関先に飾られた季節の花々など、美しい景観を守るためのこまやかな工夫があちこちで見られます。住民一人ひとりの心遣いが、飛騨古川の町並みを今も魅力的に保ち続けています。
古川祭と一体化したまちづくり
毎年4月に開催される「古川祭」も、飛騨古川のまちづくりに大きな役割を果たしています。
市街地には祭屋台を収納するための「屋台蔵」が10ヶ所あり、屋台蔵の近くには必ず、火災防止の神である秋葉様が祀られています。各屋台の紋を集めるスタンプラリーも行われており、観光客に人気です。
祭当日は豪華絢爛な屋台が町を練り歩くため、巡行を妨げないように道路の無電柱化も進行中。これは景観の保全だけでなく、防災の観点からも重要な取り組みとなっています。
古川の人々は、「古川祭のためにも町を綺麗にしていたい」と口を揃えます。まちづくりの軸に祭がある、そんな町が飛騨古川なのです。
インタビュー:田近 豊一さん(田近百貨店)
創業1672年、飛騨古川のまちなかに店を構え、事務用品から化粧品まで様々な品を取り扱う「田近百貨店」。町の変遷を見守り続けてきた、店主の田近豊一さんにお話を伺いました。
-田近さんは、古川祭保存会に在籍されているそうですね。どんな活動を行っているのでしょうか?
各屋台組から寄せられる、屋台の修理や費用の相談をまとめています。匠の技術が施された屋台の修理には多額の費用がかかりますから、国や市への補助金申請も行っています。
古川の人間にとって、古川祭は特別なものなんです。祭を存続させるために、私を含め60人ほどが尽力しています。
-飛騨古川の町並みは、昔と比べて変わりましたか?
私が観光協会に所属していた初めの頃は、景観条例やガイドラインがなく、外部資本による相場くずしが不安視されていました。まずは住民の意識を変えてもらおうと、「古川町景観デザイン賞」を創設したり、公共施設のハード面を整備したりする中で、景観保全に対する考え方はずいぶん進歩したと思います。
また、2002年に古川が連続テレビ小説の舞台となった時は、多くの観光客でにぎわいましたが、そこで浮つかずに、観光化しすぎないまちづくりを目指せたのも良かったですね。
-町並みを守る上で、課題に感じていることがあれば教えてください。
人口減少と高齢化です。これまで、古い町並みを彩る「ぼんぼり夢街道」など様々なイベントを実施してきましたが、人出不足で続けられなくなってきています。
ただ、近年は地元の中高生がまちづくりに関心を寄せてくれたり、市外・県外の人が「ヒダスケ!」を使って行事に参加してくれる事例も増えてきました。これからも、にぎわいのある美しい町並みが保たれることを期待しています。
ヒダスケ!飛騨市の関係案内所⇩
インタビュー:板橋 智子さん(いたばし生花店)
円光寺の向かいに位置し、生花はもちろんドライフラワーやインテリア用品も揃える「いたばし生花店」。代表を務める旦那様との結婚を機に、高山市から飛騨古川へ移住してきたという板橋智子さんにもお話を伺いました。
-移住された時の率直なお気持ちを聞かせてください。
「飛騨古川のまちなかに嫁いだら大変でしょう」と言われることもあるのですが、私は全く困りませんでした。夫は消防団にも所属していて、その人脈のおかげで私もスムーズに地域へ溶け込むことができました。
-先ほど、お子様たちと瀬戸川を掃除する様子を見せていただきました。仕事や子育てもある中、定期的に当番が回ってくるのは困りませんか?
近隣住民が川掃除をするのは当たり前だと思っています。他にも、火の用心を町内に呼びかける当番もありますが苦には感じません。どちらも子どもたちと一緒にできますし、地域の人たちと触れ合う時間になっています。
-町並みの景観を守るために、心掛けていることはありますか?
古川の人たちには「自分たちの町を綺麗にするのは当然」という意識がある気がします。いつの間にか私もそういう考えになっていて、道にゴミが落ちていれば拾うし、家の周辺もこまめに片付けるようにしています。玄関先に掃除用具などが出しっぱなしになっていると気になってしまうんです。
誰かに指示されるからではなく、観光客のためでもなく、自分たちのため。そんな住民たちの想いが、飛騨古川の町並みを保っているのではないでしょうか。
今回、飛騨古川の町を歩き、住民の方々にお話を聞かせていただいて、何気なく見える景色の中にも物語があることに気付きました。町の歴史や人々の工夫を知れば、町歩きがもっと味わい深くなるはず。ぜひ、飛騨古川の町並みを、ご自身の目と足で歩いてみてください。